自伝-2-

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 自分の考え方というか価値の基準というか、それの作られてきた背景を考えることがままありました。いまも自分の生い立ちのなかに、なにが潜んでいて、なにが蓄積されていて、いまのモノの捉え方になっているのだろう。なんてことを考えるんですが、かなり曖昧ですね。でも、歴史とかを学んできたことから、自分では戦後史の枠を想定する中で、ひとりの男がいろいろな活動に関わる、それが自分だ、なんて思うわけです。いわば実録とかいうけれど、フィクションじゃないですか。そのフィクションを持つことによって自分は生きているのだという確証をえているみたいです。内面の時代とか世間で言われているかどうかはわからないですが、ぼくは内面の時代がやってきたているんだ、と思っています。自分を語るということが自分のテーマになるというのが、まさに内面の時代がそこにあるということではないか、と思うのです。

 生まれは昭和21年、西暦1946年です。歴史としてぼくが生まれる前年に第二次世界大戦が終わり、日本は無条件降伏となったわけで、その翌年に生まれたぼくは、完全なる戦後派だと思えるのです。こんなところから書きだせば大河ドラマの台本になってしまうので、簡単にまとめるけれど、産まれた場所は京都の西陣地区です。西陣織の機業地で、向こう三軒両隣、織物に関係する職業のひとばかりの地域です。いいかたがわからないのですが、生活の底辺をいきる人々の群れ、みたいなイメージで、ぼくはイメージしてしまいます。美しくないですよ、京都を描く物語や映像は、それは美的に表現されるけれど、現実、実体験としては、暗くてじめじめしていて黴臭い、遠い思い出の光景は、そのように思えて仕方がないのです。それは感情を伴ってくるから、けっこうやるせないです。地の底なんていいかたでいいんでしょうか、京都の盆地の底に渦巻く生活者の群れ、です。地獄絵の餓鬼道みたいな閻魔から見たら下の方、地獄イメージです。

 父の母は織子です。手機でばったんばったんと織っていた。家の作りが機屋つくりで、家屋ごと織機となる中二階つくりの四軒長屋の一区切りです。そうです、産まれたのは父の実家の西陣ですが、物心つく頃は、壬生にいてました。小学校に入学するとき、産まれた家がある、今も住んでいる、その地に移住してきたのです。覚えています。おぼろげに、いくつかの光景をおぼえています。小学校の高学年になってくると、かなり記憶が鮮明になってきます。地域柄、共産党が強い地域、たぶん、いまでもそうなのかどうなのかわからないけれど、その当時には政治的には権力に刃向かう立場になる人が多かったんじゃないか、と思います。それと在日朝鮮人の人たちが集団で住んでいた区域が、小学校区のなかにありました、と言ってよいと思います。つまり、ぼくは、風土的に反体制、それも過激派ではなくて、穏健派とでもいえばいいのかも、小学校のころだから12歳くらいまでに、そういう資質が植えられてきたのではないかと思えます。

自伝-1-

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 自伝というタイトルで書き始める文章、それに写真をくっつけて、物語風に仕立てていきたいと思うとことです。以前に「自己史の形成」というフレームを考えたことがありました。還暦のころだったかも知れません。それから10年が経って古希という年代に入ってしまいました。先がないと思うと、経てきた過去の時間の中にいることが結構多くて、いろいろ、思うことが多くて、懐かしく思ったり、虚しく思ったり、そういうことが自分という内部で起こっているわけです。物語風だから、決して本当のことばかりではなく、作り話的なこともあるかもしれません。記憶を辿りながら、こうあったらいいのに、と思っていたことが現実であったように思っているのかも知れない。思い込みで勘違いがあるかも知れない。

 ここの枠組みが「芸術のはなし」というタイトルだから、ぼくの芸術にまつわるはなしを軸に記述していく義務があるのかも知れません。なによりも、芸術、っていったら気持ちいいじゃないですか。本音で言ってしまいますが、芸術って、かっこいいです。芸術家に憧れていた自分が、古希を迎えたわけだから、その話は半世紀も以前の記憶から紐解いていかないといけないなぁ。それは二十歳になったころからの記述になります。二十歳になったのは1966年ですね。成人式の日のこと、1967年の1月です。高校を卒業して十字屋楽器店に就職しました。営業ではなくて技術部、ピアノの調律師をめざす職場でした。当時ヤマハのエレクトーンが世に発売されて、修理や調整する技術屋がいないというので、エレクトーンの技術をやらないかと森さんだったか技術部長さんに勧められました。

 当時、大阪は心斎橋のヤマハの二階に大阪支店があって、そこへ三か月の研修目的で預けられました。ヤマハの社員さんと行動を共にした三か月でした。そこで、思ったこと、ヤマハの社員は大手企業のサラリーマン、ぼくは京都の楽器屋の社員、なにか格差を感じたものです。はなしは郵便局時代になりますが、ここは大企業どころか国営で、ビッグ組織でしたから、感じたのは銀行員との収入格差くらいでしょうか。収入を得る道として、正確には1969年12月、郵政省に臨時補充員として採用され、1970年2月に事務員として採用されます。話を戻して、十字屋楽器店は二年で辞めました。大学へ行きたくなって、大学進学を口実に音楽から離れます。退職の時、課長さんに辞める理由を、小説家になる為です、と言ったことをおぼえています。課長さんは、ふふん、と笑っていました。(続く)



posted by nakagawa at 10:18Comment(0)自伝

芸術のはなし-1-

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この世の出来事のなかに「芸術」の出来事があるように思えます。
芸術することを人の営みのひとつの行為だとすることに異論はないと思えます。
人の営みの一つだとしたけれど、ほかにはどんな営みがあるのでしょうか。
基本的には、生きていくための営み、食べる、セックスする、このことです。
単に生きていくだけなら「食べること」でしょうが、子孫を残すことも必要です。
そうするとセックスして子孫を残していくことをしなければなりません。
それだけで済むかといえば、これだけでは済まなくて、共同体を構成します。
共同体はその後になって国家という概念で括られるようになる集団を構成します。
こういう組織化されるなかにあって、人は社会的な人格を得ます。
ところでこの社会的人格から外れて、個としての人になるとき芸術の領域になる。
社会的人格というのがあって、それの対極として、いってみれば芸術的人格がある。
そのように言えるのではないかと、思うようになっています。
社会のなかにあって、社会的人格は、経済活動に組み込まれた人格です。
観念的に考えて、この経済活動から外れるところに芸術活動が生じてくる、と。
(続く)

風景論-5-

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<内なる風景-3->
今日は2017年3月6日という日付です。
ここに掲載した写真は嵯峨天皇陵の正面から撮ったものです。
すでに撮った日時は過去になったことです。
時間という意識の区切りは、ひとの記憶を司ります。
ところが内なる風景というとき、この時間がランダムになります。
一年前の2016年3月6日という日の記憶は、一枚の写真で記憶が呼び覚まされます。
ここには掲載しませんが、日付がはいった写真でした。
その写真を撮ったときのことを思いだします。
お別れした日の、そのあとの、傷心をとどめようとした記憶がよみがえります。
連鎖的にそのことが起こった日のこと、そこに至った日々のことを思いだします。
内なる風景は、記憶だから自分には幻影で見える風景ですが、写真のように定着しません。
写真が内なる風景の定着であろうとするなら、それは、どうすれば、そうなるのか。
内なる風景と表現された風景は、乖離しているわけですが、そこに美が介在するのかも。

posted by nakagawa at 18:11Comment(0)風景論

風景論-4-

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<内なる風景-2->
 コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって、にかけて「内的風景に向かって」という言葉が浮かんできました。半世紀前の写真家意識というのは、社会的風景に向けて作品を創るということだと言えます。それから半世紀後の現在では、人間の進化というか変化も含め、その意識の向かい方は内に向かってきていると思います。外面がひろがって、自己の存在を認識できるようになったところから、内面を認識するように目覚めてきたといえるのではないか。ケン・ウイルバーでしたか「進化の構造」のなかで、このことを分析していたように記憶しています。

 個を中心に世界の構造をみると、外にひろがる世界と内にひろがる世界があることに気づきます。内にひろがる世界のことを「内面」という言い方や「心的風景」「心象風景」といったような言い方があるかと思います。この内面のイメージを、平面に静止画として定着させるということを、自分表現の一つとして浮上してきていると思います。今更のことではなく、それは1930年代とか、1960年代とか、いくつかの年代を越えて深化してきているように思えます。新興写真運動や社会風景への認識を越えて今があると思えることです。風景の発見ということを文学上で論じるのは柄谷行人氏です(日本近代文学の起源:1978)。
posted by nakagawa at 21:45Comment(0)風景論

風景論-3-

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<内なる風景-1->
自分という身体を介して、その外側と内側があると想定しましょう。
身体の内側というと脳とか内蔵とかとか血管とか、血液とかリンパ液とか。
いってみれば生理的に確認できる、見えるものとしての内側があります。
それから、ここでいう<内なる風景>の内なるという内のことですが。
内面とかいう言葉がありますが、いったいこれが何モノなのか、ということです。
あるいは最近の言葉だと、心とか、精神だとか身体を割ってみても、見えるモノではありません。
それなのに内面、内なる風景、あるいは心とか精神ということがいわれます。
見えないモノを見る、ということをいうようになり、実践しようとします。
これは心・精神の、ヒトの在り方の未来形ではないだろうかと考えます。
そもそも外と内に分けるという思考法、いつのころから成立してきたのか。
たぶん、近代という枠組みの中で、組み立てられてきた言葉ではないか。
そうして、その言葉が醸すイメージを、感情を伴わせて、内に立ち昇らせる。
経験のイメージを、自分の中で組み合わせる。
これを言語に置き換えていくというのが文学、小説、詩、和歌、俳句。
なかなか、この<内なる風景>のことを考えるようになったのは最近ではないか。


posted by nakagawa at 17:34Comment(0)風景論