桜の季節-2-

桜の風景、撮りおろしアルバムです。
京都御苑2018.3.27
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桜の季節

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 今年は桜の開花が早いので、まだ三月が一週間あるというのに、満開になっています。毎年、桜の季節になって、桜の開花が伝えられると、こころが浮き立ってきます。陽気との関係もあるのかと思いますが、こころが浮き立つ、もぞもぞとからだが蠢いてくる感覚になるのです。花といえば桜のことのようで、パッと咲いてパッと散る、これが武士道だというのだけれど、ぼくにはどうもそぐわない感じです。もっともぞもぞ、ぐずぐず、うごめいている感じで生きている気がします。それでも、ここ十年、桜の季節には桜を撮ります。見返してみると、その都度、撮り方が変わってきています。今年はスマホで撮っています。スマホといっても、エクスペリアという機種で、ソニーが製造している機種で、たぶんそこについているカメラ機能も、この機種に作られたやつだと思います。オートでストレートに撮って、パンチにして黒枠つけて露出とコントラストをつけて、保存します。おおむねこの保存した画像が、ここに載せたようなイメージに仕上がるのです。インスタグラムのカメラで撮るときは、その場で編集してライブ発信します。ライブで発信する、ということにこだわっています。いまは静止画ですが、動画がスムーズにアップできれば、動画を使う、これは制作態度というやつで、撮る場所、ライブ、そこに自分という生命体が介在している、ということの存在感を表しているのだと、思っています。即時性、ライブ感覚、共有、そんな感覚で世界とつながっている、そう感じることで、自分が安定する気分になっていきます。同行してくれるヒトが欲しくって、同行していただいて、親密感を抱いて、夢の中、ロマンリアリズムに浸っています。春の嵐、読み出しました。

芸術について-3-

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 芸術という言葉が醸すイメージは、けっこう堅苦しいというか、古めかしいイメージを抱きます。藝術なんて古めかしい書体で記述されると、いっそう堅苦しく、高尚なイメージを抱いてしまいます。最近なら、アート、という言いかたがあります。昔はアルスとかとか言っていたみたいですけど、日本語にすれば<芸術>ということでいいのですね。なにかしら、表面の感じ方だけで、芸術という領域を漠然とイメージ化しているように思えています。それと、芸術という言い方は、20世紀になってからでしょうか、そんな気がします。というのは、バウハウスが始まったころには、まだ芸術家という言い方はなかった、と読んだ記憶があるからです。そんな芸術について、どういうことなんだろか、と思う自分がいて、それを自分なりに解明してみたいなぁ、と思うのです。

自伝的物語-4-

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-4-
 嵯峨釈迦堂の本名は清凉寺という名前で、門前の立て札にその名前の由来が書かれてありました。お釈迦様の像があって、それが国宝に指定されていらっしゃるのかしら、詳しくはわかりません。写真は太子堂とか書いてあったか、光源氏のモデルとなった御方が住まわっていた跡だと書かれた札がありました。2018.3.12、ぼくは其処を訪れ、スマホで写真を撮らせてもらいました。この場所へは、一昨年あたりから何度か訪れていて、デジタルカメラで同じような写真を撮っておりました。思い出の場所といえば、いつも此処は嵐山から清滝へいくときの通過点でした。此処へ来るといつもその当時のことを思い出すのでした。中学生になって、吹奏楽部に入って、夏には部員の男女が飯盒炊爨をやる。はんごうすいさん、とキーを打って変換すると四文字の漢字の熟語が出てきた飯盒炊爨です。なにかというと野営の場所でご飯を炊いて、おかずを調理して食べる、当時は飯盒でご飯を炊き、牛肉のすき焼きをする、ということでした。清滝は愛宕山の登り口に流れている川で、川下で保津川に合流して嵐山へ流れる大堰川となる水流です。そこへいく道の途中が、嵯峨釈迦堂だったというわけです。

 飯盒炊爨のことは、それは少年にとって楽しいことで、すき焼きには牛肉がたっぷりだったから、うれしいこと極まりありません。この話が、ここに出てくるのは、つい最近、一年後輩の文字さんとの会話で、飯盒炊爨のことが話題になったからです。1960年代前半のことで、今のような観光地ではなくて、昔からある寺、といった感じの風景が、そこにあったと思います。記憶の中でしかそのイメージは存在していませんが、嵐電嵐山駅の前の道を、左には渡月橋ですが、右にまっすぐ、突き当りが嵯峨釈迦堂、清凉寺の山門でした。これは今も変わりませんが、道路が整備され、家が立ち並び、山門前の風景は、すっかり変わっています。この山門の前を左に、小倉山の方へ行って、右に曲がるぅと、落柿舎があります。いまも変わりなく、落柿舎はあります。向井去来、俳句を詠むひとですが、芭蕉の門下生で、ということを知るのは高校生になってからですが、吹奏楽部顧問の寺本先生から、たぶん俳句のひとが、ここにいた、という話を聴いたと、おぼろげながら、記憶が呼び出されます。

 どうした弾みか、高校が、嵯峨野高校ということになって、同級生やクラブの生徒が、太秦から嵯峨の界隈に住んでいて、ぼくにとっても親しい場所となっていくのでした。現在は、嵯峨野高校というと進学校で有名らしい、コスモス科というコースがあって、進学のための勉強レベルが高いと聞いています。当時は、京都市内の中学生で公立高校の普通科に通うのは、小学校区単位で決められていて、ぼくは本来山城高校だったのが嵯峨野高校になった、という話です。中学生から高校生になるのは、1962年のことでしょうか。3年生の秋に東京オリンピックがあって、これが1964年だったはずだから、計算は合うと思います。ケネディ大統領が暗殺されたのが1963年11月、高校二年生でしたから。この流れでゆうと、暗殺の号外を見たのは嵐山駅の前でした。11月23日の朝です。この日は祝日で、文芸部の連中とハイキング、ということで結構早い時間に嵐電の嵐山駅に着いたところでした。飯盒炊爨はやらなくて、男女が山の中へ入って道を歩いた、その記憶の光景が、いくつか思い出されます。

ロマンリアリズム

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ロマンリアリズム宣言
もしくはローマンレアリスム宣言
2018年3月11日 淡水

春の気配になにやらうようよ蠢いてくるものがある。
皮膚のうちがわの血が騒ぐ、あるいは潮が満ちてくる。
これは初源の蠢きといっていい。
豊かな感情、正確な描写、芸術の原点、<これ>を求めよう。

時代の風潮はいまや内面の時代だ。
体の内部の情なるものを表に出そう。
豊かなる感情と感覚を求めるプロセスとして。
新しい文学と表象を我の内部から紡ぎ出せ。

もっと本質本音を表現として掘り下げようというのだ。
これは論外に置いている領域を論内に取り戻せ運動だ。
表現の根源は生の根源、性の痕跡を表に現わすこと。
新しい潮流がいま始まっていく宣言をここに発する。

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自伝的物語-3-

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-3-
 たしか馬酔木の花だと思っているけれど、間違っているかも知れない、馬が酔う木なんて匂いがきついんでしょうかね。昨日です、京都梅ケ畑の平岡八幡宮を訪れました。その沿道に咲いているのを見つけて写真に撮ったものです。堀辰雄の散文に「浄瑠璃寺の春」というタイトルの文章があったと思うんですが、その冒頭あたりに馬酔木が似合うとかなんとか、馬酔木という字句がありました。もうそれを知ったのは半世紀以上も以前の事で、どんな木の事だろうと長らく思っていました。これが馬酔木よ、と教えてくれたのは彼女で、その彼女とはいまも一緒にいます。さて、それはそれで、自伝を書こうとして、ここにいるのですが、通年でなるだけあったことを忠実に、なんて思いと、フィクションにしてしまえ、という思いが交錯していて、フィクションのようなノンフィクションのような、まるで夢の中、とりあえずは自分を立派な人だった、と印象つけるように仕立てていこうかと、思うところです。

 高校の二年生あたりだったか、文学に興味を持ちだして、小説を読みだしたころの、日本の小説家で興味を持ったのが堀辰雄という作家の小説でした。代表作は「風立ちぬ」でしょうね。それから菜穂子ってのもあった、恢復期とかルーベンスの偽画でしたか、不器用な天使なんてイメージは、いまもって心が洗われる感じです。ぼくの年齢でいえば17歳です。青春期の真っ只中というところでしょうか。まだ政治的には目覚めていなくて、感性的に文学へ惹かれていったようです。詩を読むことが多かった。外国の詩人で、アポリネールとかリルケとか、日本の作家では島崎藤村「若菜集」とか、高村光太郎「智恵子抄」だとか、啄木は中学生の時だからここでは除外ですが、自分でも詩集をつくろうと思って、ガリ版刷りの詩集を発行したものです。ただし三号で終わりました。そんななかですね、堀辰雄、風立ちぬ、節子って名前が出てくるじゃないですか、結核で亡くなってしまう女子ですが、とっても新鮮に思えて、愛読します。この節子という名前に、関連付けてその後のぼくの文学歴の系があったように思えます。

 17歳、高校二年生になって、大学の受験勉強を始めたぼくは、三当四落だったか四当五落だったかの熟語があって、睡眠時間によって合否が決まるという受験勉強へのハッパのかけ方で、それの準じて、ぼくは睡眠時間を削って、参考書に向かって、眠くなれば目覚ましの錠剤を吞むということをやりだしました。たしかに良い点が取れたと思います。ところが、ブラスバンド部をつくる話が浮上してきて、それに乗り出したのです。だれだったか合唱部をやっていた中学からの同期生に、吹奏楽部を創ろうといわれて、結局ひとりで奔走することになって、夏前に、吹奏楽部の初披露演奏会を開いたものでした。もう受験勉強は置いてけぼりで、新聞部もやめ、それに没頭して秋の文化祭までを突っ走ります。その底流に、好きな子への想いがあって、それを断ち切る気持ちの中で、すすめたぼく自身への逃避でもあったと思います。吹奏楽部立ち上げが終わる文化祭で、文芸部と出会って、文学への目が開いてきたのかも知れません。(続く)