自伝的物語-4-

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 嵯峨釈迦堂の本名は清凉寺という名前で、門前の立て札にその名前の由来が書かれてありました。お釈迦様の像があって、それが国宝に指定されていらっしゃるのかしら、詳しくはわかりません。写真は太子堂とか書いてあったか、光源氏のモデルとなった御方が住まわっていた跡だと書かれた札がありました。2018.3.12、ぼくは其処を訪れ、スマホで写真を撮らせてもらいました。この場所へは、一昨年あたりから何度か訪れていて、デジタルカメラで同じような写真を撮っておりました。思い出の場所といえば、いつも此処は嵐山から清滝へいくときの通過点でした。此処へ来るといつもその当時のことを思い出すのでした。中学生になって、吹奏楽部に入って、夏には部員の男女が飯盒炊爨をやる。はんごうすいさん、とキーを打って変換すると四文字の漢字の熟語が出てきた飯盒炊爨です。なにかというと野営の場所でご飯を炊いて、おかずを調理して食べる、当時は飯盒でご飯を炊き、牛肉のすき焼きをする、ということでした。清滝は愛宕山の登り口に流れている川で、川下で保津川に合流して嵐山へ流れる大堰川となる水流です。そこへいく道の途中が、嵯峨釈迦堂だったというわけです。

 飯盒炊爨のことは、それは少年にとって楽しいことで、すき焼きには牛肉がたっぷりだったから、うれしいこと極まりありません。この話が、ここに出てくるのは、つい最近、一年後輩の文字さんとの会話で、飯盒炊爨のことが話題になったからです。1960年代前半のことで、今のような観光地ではなくて、昔からある寺、といった感じの風景が、そこにあったと思います。記憶の中でしかそのイメージは存在していませんが、嵐電嵐山駅の前の道を、左には渡月橋ですが、右にまっすぐ、突き当りが嵯峨釈迦堂、清凉寺の山門でした。これは今も変わりませんが、道路が整備され、家が立ち並び、山門前の風景は、すっかり変わっています。この山門の前を左に、小倉山の方へ行って、右に曲がるぅと、落柿舎があります。いまも変わりなく、落柿舎はあります。向井去来、俳句を詠むひとですが、芭蕉の門下生で、ということを知るのは高校生になってからですが、吹奏楽部顧問の寺本先生から、たぶん俳句のひとが、ここにいた、という話を聴いたと、おぼろげながら、記憶が呼び出されます。

 どうした弾みか、高校が、嵯峨野高校ということになって、同級生やクラブの生徒が、太秦から嵯峨の界隈に住んでいて、ぼくにとっても親しい場所となっていくのでした。現在は、嵯峨野高校というと進学校で有名らしい、コスモス科というコースがあって、進学のための勉強レベルが高いと聞いています。当時は、京都市内の中学生で公立高校の普通科に通うのは、小学校区単位で決められていて、ぼくは本来山城高校だったのが嵯峨野高校になった、という話です。中学生から高校生になるのは、1962年のことでしょうか。3年生の秋に東京オリンピックがあって、これが1964年だったはずだから、計算は合うと思います。ケネディ大統領が暗殺されたのが1963年11月、高校二年生でしたから。この流れでゆうと、暗殺の号外を見たのは嵐山駅の前でした。11月23日の朝です。この日は祝日で、文芸部の連中とハイキング、ということで結構早い時間に嵐電の嵐山駅に着いたところでした。飯盒炊爨はやらなくて、男女が山の中へ入って道を歩いた、その記憶の光景が、いくつか思い出されます。