自伝的物語-5-

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 自伝とはいっても史実に忠実に描いているわけではなくて、少しはフィクションを加味して自叙伝を書いておこうとの試みです。だいたい、自分の都合に合わせて、自分が主人公の物語を書くわけだから、都合のいいことばかりを書くというのが順当なところです。都合の悪いことは書かない。それの良否を自分で判断していくわけです。さて、高校生の頃の話を書いていたかと思います。実は昨日2018年4月5日ですが、清凉寺から清滝のトンネル前まで歩いてみました。中学の頃に飯盒炊爨をしに清滝へいく途中に通った道ですが、そののち、高校二年生になったころに、この地へよく来た記憶がよみがえってくるのです。同い年の女子の家が、一年下の女子の家が、その道筋にあって、昨日通ったら、古びてはいたけれど、健在でした。あれらの日々から半世紀以上が経っているのに、家屋が残っている、というのです。これは半世紀ぶりではなくて、数年前にも来ていて、確認していることでした。

高校二年生の秋に「そなちね」と名付ける詩集を発行します。1963年12月8日発行とあります。目まぐるしく変化した高校二年生だったと思います。記憶を辿っていくなら、吹奏楽部を創ろうという話が合ったのが、新学期始まってしばらくしてからです。二年生になって大学受験のための勉強をはじめていました。記憶では5月になってからではないかと思いますが、4月の後半だったかも知れません。生徒会総会を開いて一人月に10円、年間120円を生徒会費に上乗せして徴収するという案件を通しました。物価としては現在の十分の一だとして、今ならひとり月に100円、年間1200円、生徒数千人だから当時12万円があつまることになり、楽器を買いました。楽団を組むほどには数がなく、人数も足りませんでした。一年下の中学時代に吹奏楽をやっていた連中を集めて、10人ほどでしたか、吹奏楽部を創って、部長に就任しました。秋の文化祭でステージを作り、演奏して拍手喝采でしたが、中学からの応援で人数合わせをして終えました。

 吹奏楽部を後輩に譲ります。ぼくは文芸部へ行きますが、部員にはならなかったように思います。素足という文芸誌を出していて、それの借金が五千円ほどあるという話を聞いて、年末年始のぼくのアルバイト賃をそれに当てるため拠出しました。そういうことに金を拠出するというのは、その後にも何度かあって、ぼくの性格であればそれに補填するということでしょう。文芸部に近づき、そうして詩集を発行します。一部5円の定価で、クラスの女子に売った記憶があります。最近の高校同窓会で、ぼくの詩集を買ったという女子に会いました。二号まで発行、三号を編集中に止めました。寒い日々だった記憶があります。二年生の秋に修学旅行で南九州へ行きました。そのとき、クラスは別になっていましたが、一年の時に好意を持って、好きになって、思い悩んだ女子と一緒で、自分の気持ちが好きさ加減に落ち込んでしまって、成立しない恋に悩み苦しんだという記憶です。基本にこのことがあって、誰に話すこともなく、ぐっと耐えて堪えて、その冬を過ごしました。三年生になったあたりから、不良高校生になります。