京都の写真-1-

京都に住んでいるから、京都の写真は、地元で撮るお散歩写真というところです。

最近、スマホのカメラで写真を撮っています。

正方形はインスタグラムへライブでアップした写真。

長方形は加工して温存してあり、こうしてブログに載せることにしました。

では、今年に入ってから撮った写真を、タイトルなしでアップしていきます。

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風景論-8-

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<風景ということについて>
 このまえに、風景を見る個人の変遷みたいな話を、どこかでしていたんですが、柄谷行人さんが「日本近代文学の起源」という評論で、明らかにされたのは、<風景の発見によって内面の発見につながる>という論の立て方でした。なるほどそうなのかと思うわけです。大きな流れとして、現在的には、表現のテーマが個人の内面を扱い、どのように表出していくか、というのがメインテーマだと感じているところです。この風景という概念は、目の前にひろがる風景、ランドスケープそのもので、たまたまぼくが認識するから、ぼくに見える風景ですが、客観的にはぼくがいなくても存在するものです。とは言いながらも、ぼくがいるからその風景がある、という個人の視点に即した捉え方で、風景なるものがとらえられるのだとも思います。

 写真展で1966年にアメリカで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって展」の話題を語ることがあります。詳しくは別にしますが、ここで「ソーシャルランドスケープ」という言葉、直訳で社会風景、あるいは社会的風景、ということですが、これは写真家の目の前にある、生活を伴った風景、日常風景、ととらえていいのではないかと考えています。この写真展の作家たちのスタンスというのが、それまで、つまり1960年代までにカメラが追ってきた風景と個人の内面との関係で、ひとつには自然風景ではない、ひとつには個人の日常ではない写真風景に対して、という位置での写真であったように思います。この展覧会の名前から、略されて日本では「コンポラ」という言葉が流布されるのですが、コンポラの意味を、今一度、捉えなおす必要があるのではないか、と現在、思っています。

 歴史の流れを全く否定するのではなくて、それとは別の流れがあるだろう、というのがぼくの現在地点での風景論なのですが、表現において、個人が自分の外の風景を自分のものとする視覚には、個人の内面をどのように表出するか、という問題が含まれると思うところです。この内面の表出と、個人が何処に向かって、誰に向けてといってもいいと思いますが、その相手先との距離感ですね、これの総合として作品が生み出されるのが、現在的表現そのものではないのか、と思います。写真表現に限りません。文学表現にもこのことは当てはまるのではないかと思います。では、それが、いったい、どういう内容のことになるのか、ということです。その時代において、主たる表現媒体のインフラを想うと、1960年代半ばといえば、日本においてはテレビがメインで、もちろん雑誌などの印刷媒体が主でした。それは半世紀後の現在を見ると、個人ツールとしてのスマートフォーンです。個人のことを発信することが容易にできて、容易に受け取れる、こういう時代が現在です。
(続く)

posted by tansui at 11:50Comment(0)風景論

自伝的物語-6-

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 1965年に高校を卒業しますが、気になるのは思想の形成に及ぼしたぼくの環境というか、地域のことです。西陣織の地場で、織物関係に従事する家が多い地区に育ったと思っています。生活者のレベルでいえば、織物産業を下から支える人々の群れがあった場所。昔、一向一揆とか、米騒動とか、いくつか歴史で習った一揆がありますが、昭和20年代から30年代、地域に西陣織産業があったから、そこまでは貧困ではなかったと思います。統計で示せばどうなるのか、そこまでの研究心がないから、感覚だけで書いていますが、政治のレベルで、支持する政党を問われるなら、共産党の影響というのが浸透しているのではないかと思っています。高校の頃に、歌声運動みたいなことがあって、たぶんそれは民主青年同盟の人が、高校生の間に組織していたのではなかったか。それに巻き込まれていたのではなかったか。別に、いま、そのことを否定的にとらえているのではなくて、まったく肯定的立場ですが、青少年に与える考え方、捉え方、というのは、教育によると思うのです。

 反自民という立場では、60年安保の頃から、反自民の感覚で、当時の社会党がぼくの身の周りにあったように思います。中学生から高校生になるころには、社会へ目が向いていくと思うんですが、共産党、創価学会、そのことを話してくれる人が、まわりにいました。いまでも宗教嫌いする人がおり、政治嫌いする人がいますが、ぼくは、あたまっから否定する人ではなかったと思います。たあ、時代の風潮に乗っかっていたんだなぁ、と思います。赤旗の日曜版というのを高校を卒業することには勧められて購読しました。高校を卒業したころには、日刊の赤旗を購読しました。紙面を読み込んだかというと、そうでもなかったけれど、これは友だち、親しかった女友だちの勧めによって、購読したのでした。彼女もそうですが、そういう運動に入っていく人には敬意を表していて、ぼくにはできない。そのことから小説家になりたいと思いはじめていて、運動に入っていくことには、どうしてだか抵抗する気持ちでした。

 反体制運動と、今となっては呼べたかどうかは不問に付しますが、ぼくの気持ちは、反体制運動の方へとなびいていきます。とはいっても1960年代の後半に多くの学生や労働者がそうであったように、ノンセクトラジカルと呼ばれた群衆のなかの一人です。といってラジカルだったかと問えば、決してラジカルな方ではなかったと思えます。1989年の10.21国際反戦デーには、ぼくは東京にいました。デモは明治公園からのベ平連のデモ隊列におりました。セクトに入って運動するところには至っていませんが、それなりに先端まで行っていたと思うんです。もちろん考え方というか、思想そのものです。70年をこえたあたりから、学校の同級生に呼ばれて、同人雑誌を発行するグループに入りました。小説を書く、発表する、そのための雑誌を作る。反鎮魂という表題の雑誌で、甲斐君という蕨出身の学友が主導で進めていきました。すでに、そのころ、ぼくは、妻帯者で子供が生まれておりました。