自伝-1-

120scan1612310023.jpg
-1-
 自伝というタイトルで書き始める文章、それに写真をくっつけて、物語風に仕立てていきたいと思うとことです。以前に「自己史の形成」というフレームを考えたことがありました。還暦のころだったかも知れません。それから10年が経って古希という年代に入ってしまいました。先がないと思うと、経てきた過去の時間の中にいることが結構多くて、いろいろ、思うことが多くて、懐かしく思ったり、虚しく思ったり、そういうことが自分という内部で起こっているわけです。物語風だから、決して本当のことばかりではなく、作り話的なこともあるかもしれません。記憶を辿りながら、こうあったらいいのに、と思っていたことが現実であったように思っているのかも知れない。思い込みで勘違いがあるかも知れない。

 ここの枠組みが「芸術のはなし」というタイトルだから、ぼくの芸術にまつわるはなしを軸に記述していく義務があるのかも知れません。なによりも、芸術、っていったら気持ちいいじゃないですか。本音で言ってしまいますが、芸術って、かっこいいです。芸術家に憧れていた自分が、古希を迎えたわけだから、その話は半世紀も以前の記憶から紐解いていかないといけないなぁ。それは二十歳になったころからの記述になります。二十歳になったのは1966年ですね。成人式の日のこと、1967年の1月です。高校を卒業して十字屋楽器店に就職しました。営業ではなくて技術部、ピアノの調律師をめざす職場でした。当時ヤマハのエレクトーンが世に発売されて、修理や調整する技術屋がいないというので、エレクトーンの技術をやらないかと森さんだったか技術部長さんに勧められました。

 当時、大阪は心斎橋のヤマハの二階に大阪支店があって、そこへ三か月の研修目的で預けられました。ヤマハの社員さんと行動を共にした三か月でした。そこで、思ったこと、ヤマハの社員は大手企業のサラリーマン、ぼくは京都の楽器屋の社員、なにか格差を感じたものです。はなしは郵便局時代になりますが、ここは大企業どころか国営で、ビッグ組織でしたから、感じたのは銀行員との収入格差くらいでしょうか。収入を得る道として、正確には1969年12月、郵政省に臨時補充員として採用され、1970年2月に事務員として採用されます。話を戻して、十字屋楽器店は二年で辞めました。大学へ行きたくなって、大学進学を口実に音楽から離れます。退職の時、課長さんに辞める理由を、小説家になる為です、と言ったことをおぼえています。課長さんは、ふふん、と笑っていました。(続く)



この記事へのコメント