芸術のはなし-5-

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表GEN研究会ph
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芸術とは、なんて考えていて、芸術作品を創りだすこと、これはやっぱり天才の仕業に違いない、と思ってしまいます。古今東西、とんでもなく特殊だと思えて仕方がない人間がいます。たとえば音楽ならベートーベンという人物、モーツアルトという人物、等々です。天才であることの細部を書かなくても、音楽をやった人にはその大きさがわかるはずです。さて、絵画なら、どうなんだろう。文学なら、どうなんだろう。その後、19世紀の中頃に写真が起こり、20世紀の初めには映画が起こり、21世紀の初めにはバーチャルリアリティーの作品があらわれていて、それらを担う人が、やっぱり天才としてのインスピレーションや処理技術をもってして表現している、のでしょうか。

そういうことでいうと、かってあったような芸術の形態において芸術作品を生み出してきた天才とは別に、新たな芸術を生み出す人がいるのではないか、と仮定しています。芸術ということが指し示す内容が、時代と共に変容してきているのではないか。だとしたら、この時代の芸術というもの、その枠組みを示して内容の変容を指示さなければいけないのではないか、と思うのです。この概要については論化できるとしても、その細部にいたる内容を明示する能力は、ぼくには備わっていないと思っています。でも、そのことができる人材を発掘しないといけないと思っていて、新しい枠組みを考えられる人が集まる「表GEN研究会ph」というグループを創ったところです。そうなんです、芸術とは何か、この時代に応じた解析と、この先を指し示すイメージを提起できる人材を育てる、そういう枠組みです。

芸術の枠組みは、基本は生産の現場です。手業としての生産の現場に、感覚としての時代感が組み込まれる。このように考えると、必用なことは「感覚としての時代感」ではないかと考えられます。感覚、時代感覚、というのは言葉によって論述できないことです。論述は、過去を分析することでしかありえなくて、これから起こりうることを予測することです。「これから」という未来は想定であって、イメージであって、予測であって、未知のものです。ただ「今」ということを的確に捉えないと「これから」がイメージできないし、イメージを作品として表現できないと思われます。できれば無意識ではなくて、意識的に論述でき、作品化できることが望ましいんです。意識化できる批評家と、無意識ながら感覚的に作品を創りだせる作家が、ペアになることで「今」を「これから」に繋げられるのかも知れないです。その意味において「表GEN研究会ph」を意味づけていきたいと考えるのです。


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