風景論-8-

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<風景ということについて>
 このまえに、風景を見る個人の変遷みたいな話を、どこかでしていたんですが、柄谷行人さんが「日本近代文学の起源」という評論で、明らかにされたのは、<風景の発見によって内面の発見につながる>という論の立て方でした。なるほどそうなのかと思うわけです。大きな流れとして、現在的には、表現のテーマが個人の内面を扱い、どのように表出していくか、というのがメインテーマだと感じているところです。この風景という概念は、目の前にひろがる風景、ランドスケープそのもので、たまたまぼくが認識するから、ぼくに見える風景ですが、客観的にはぼくがいなくても存在するものです。とは言いながらも、ぼくがいるからその風景がある、という個人の視点に即した捉え方で、風景なるものがとらえられるのだとも思います。

 写真展で1966年にアメリカで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって展」の話題を語ることがあります。詳しくは別にしますが、ここで「ソーシャルランドスケープ」という言葉、直訳で社会風景、あるいは社会的風景、ということですが、これは写真家の目の前にある、生活を伴った風景、日常風景、ととらえていいのではないかと考えています。この写真展の作家たちのスタンスというのが、それまで、つまり1960年代までにカメラが追ってきた風景と個人の内面との関係で、ひとつには自然風景ではない、ひとつには個人の日常ではない写真風景に対して、という位置での写真であったように思います。この展覧会の名前から、略されて日本では「コンポラ」という言葉が流布されるのですが、コンポラの意味を、今一度、捉えなおす必要があるのではないか、と現在、思っています。

 歴史の流れを全く否定するのではなくて、それとは別の流れがあるだろう、というのがぼくの現在地点での風景論なのですが、表現において、個人が自分の外の風景を自分のものとする視覚には、個人の内面をどのように表出するか、という問題が含まれると思うところです。この内面の表出と、個人が何処に向かって、誰に向けてといってもいいと思いますが、その相手先との距離感ですね、これの総合として作品が生み出されるのが、現在的表現そのものではないのか、と思います。写真表現に限りません。文学表現にもこのことは当てはまるのではないかと思います。では、それが、いったい、どういう内容のことになるのか、ということです。その時代において、主たる表現媒体のインフラを想うと、1960年代半ばといえば、日本においてはテレビがメインで、もちろん雑誌などの印刷媒体が主でした。それは半世紀後の現在を見ると、個人ツールとしてのスマートフォーンです。個人のことを発信することが容易にできて、容易に受け取れる、こういう時代が現在です。
(続く)

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