自伝的物語-6-

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 1965年に高校を卒業しますが、気になるのは思想の形成に及ぼしたぼくの環境というか、地域のことです。西陣織の地場で、織物関係に従事する家が多い地区に育ったと思っています。生活者のレベルでいえば、織物産業を下から支える人々の群れがあった場所。昔、一向一揆とか、米騒動とか、いくつか歴史で習った一揆がありますが、昭和20年代から30年代、地域に西陣織産業があったから、そこまでは貧困ではなかったと思います。統計で示せばどうなるのか、そこまでの研究心がないから、感覚だけで書いていますが、政治のレベルで、支持する政党を問われるなら、共産党の影響というのが浸透しているのではないかと思っています。高校の頃に、歌声運動みたいなことがあって、たぶんそれは民主青年同盟の人が、高校生の間に組織していたのではなかったか。それに巻き込まれていたのではなかったか。別に、いま、そのことを否定的にとらえているのではなくて、まったく肯定的立場ですが、青少年に与える考え方、捉え方、というのは、教育によると思うのです。

 反自民という立場では、60年安保の頃から、反自民の感覚で、当時の社会党がぼくの身の周りにあったように思います。中学生から高校生になるころには、社会へ目が向いていくと思うんですが、共産党、創価学会、そのことを話してくれる人が、まわりにいました。いまでも宗教嫌いする人がおり、政治嫌いする人がいますが、ぼくは、あたまっから否定する人ではなかったと思います。たあ、時代の風潮に乗っかっていたんだなぁ、と思います。赤旗の日曜版というのを高校を卒業することには勧められて購読しました。高校を卒業したころには、日刊の赤旗を購読しました。紙面を読み込んだかというと、そうでもなかったけれど、これは友だち、親しかった女友だちの勧めによって、購読したのでした。彼女もそうですが、そういう運動に入っていく人には敬意を表していて、ぼくにはできない。そのことから小説家になりたいと思いはじめていて、運動に入っていくことには、どうしてだか抵抗する気持ちでした。

 反体制運動と、今となっては呼べたかどうかは不問に付しますが、ぼくの気持ちは、反体制運動の方へとなびいていきます。とはいっても1960年代の後半に多くの学生や労働者がそうであったように、ノンセクトラジカルと呼ばれた群衆のなかの一人です。といってラジカルだったかと問えば、決してラジカルな方ではなかったと思えます。1989年の10.21国際反戦デーには、ぼくは東京にいました。デモは明治公園からのベ平連のデモ隊列におりました。セクトに入って運動するところには至っていませんが、それなりに先端まで行っていたと思うんです。もちろん考え方というか、思想そのものです。70年をこえたあたりから、学校の同級生に呼ばれて、同人雑誌を発行するグループに入りました。小説を書く、発表する、そのための雑誌を作る。反鎮魂という表題の雑誌で、甲斐君という蕨出身の学友が主導で進めていきました。すでに、そのころ、ぼくは、妻帯者で子供が生まれておりました。

自伝的物語-5-

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 自伝とはいっても史実に忠実に描いているわけではなくて、少しはフィクションを加味して自叙伝を書いておこうとの試みです。だいたい、自分の都合に合わせて、自分が主人公の物語を書くわけだから、都合のいいことばかりを書くというのが順当なところです。都合の悪いことは書かない。それの良否を自分で判断していくわけです。さて、高校生の頃の話を書いていたかと思います。実は昨日2018年4月5日ですが、清凉寺から清滝のトンネル前まで歩いてみました。中学の頃に飯盒炊爨をしに清滝へいく途中に通った道ですが、そののち、高校二年生になったころに、この地へよく来た記憶がよみがえってくるのです。同い年の女子の家が、一年下の女子の家が、その道筋にあって、昨日通ったら、古びてはいたけれど、健在でした。あれらの日々から半世紀以上が経っているのに、家屋が残っている、というのです。これは半世紀ぶりではなくて、数年前にも来ていて、確認していることでした。

高校二年生の秋に「そなちね」と名付ける詩集を発行します。1963年12月8日発行とあります。目まぐるしく変化した高校二年生だったと思います。記憶を辿っていくなら、吹奏楽部を創ろうという話が合ったのが、新学期始まってしばらくしてからです。二年生になって大学受験のための勉強をはじめていました。記憶では5月になってからではないかと思いますが、4月の後半だったかも知れません。生徒会総会を開いて一人月に10円、年間120円を生徒会費に上乗せして徴収するという案件を通しました。物価としては現在の十分の一だとして、今ならひとり月に100円、年間1200円、生徒数千人だから当時12万円があつまることになり、楽器を買いました。楽団を組むほどには数がなく、人数も足りませんでした。一年下の中学時代に吹奏楽をやっていた連中を集めて、10人ほどでしたか、吹奏楽部を創って、部長に就任しました。秋の文化祭でステージを作り、演奏して拍手喝采でしたが、中学からの応援で人数合わせをして終えました。

 吹奏楽部を後輩に譲ります。ぼくは文芸部へ行きますが、部員にはならなかったように思います。素足という文芸誌を出していて、それの借金が五千円ほどあるという話を聞いて、年末年始のぼくのアルバイト賃をそれに当てるため拠出しました。そういうことに金を拠出するというのは、その後にも何度かあって、ぼくの性格であればそれに補填するということでしょう。文芸部に近づき、そうして詩集を発行します。一部5円の定価で、クラスの女子に売った記憶があります。最近の高校同窓会で、ぼくの詩集を買ったという女子に会いました。二号まで発行、三号を編集中に止めました。寒い日々だった記憶があります。二年生の秋に修学旅行で南九州へ行きました。そのとき、クラスは別になっていましたが、一年の時に好意を持って、好きになって、思い悩んだ女子と一緒で、自分の気持ちが好きさ加減に落ち込んでしまって、成立しない恋に悩み苦しんだという記憶です。基本にこのことがあって、誰に話すこともなく、ぐっと耐えて堪えて、その冬を過ごしました。三年生になったあたりから、不良高校生になります。

自伝的物語-4-

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 嵯峨釈迦堂の本名は清凉寺という名前で、門前の立て札にその名前の由来が書かれてありました。お釈迦様の像があって、それが国宝に指定されていらっしゃるのかしら、詳しくはわかりません。写真は太子堂とか書いてあったか、光源氏のモデルとなった御方が住まわっていた跡だと書かれた札がありました。2018.3.12、ぼくは其処を訪れ、スマホで写真を撮らせてもらいました。この場所へは、一昨年あたりから何度か訪れていて、デジタルカメラで同じような写真を撮っておりました。思い出の場所といえば、いつも此処は嵐山から清滝へいくときの通過点でした。此処へ来るといつもその当時のことを思い出すのでした。中学生になって、吹奏楽部に入って、夏には部員の男女が飯盒炊爨をやる。はんごうすいさん、とキーを打って変換すると四文字の漢字の熟語が出てきた飯盒炊爨です。なにかというと野営の場所でご飯を炊いて、おかずを調理して食べる、当時は飯盒でご飯を炊き、牛肉のすき焼きをする、ということでした。清滝は愛宕山の登り口に流れている川で、川下で保津川に合流して嵐山へ流れる大堰川となる水流です。そこへいく道の途中が、嵯峨釈迦堂だったというわけです。

 飯盒炊爨のことは、それは少年にとって楽しいことで、すき焼きには牛肉がたっぷりだったから、うれしいこと極まりありません。この話が、ここに出てくるのは、つい最近、一年後輩の文字さんとの会話で、飯盒炊爨のことが話題になったからです。1960年代前半のことで、今のような観光地ではなくて、昔からある寺、といった感じの風景が、そこにあったと思います。記憶の中でしかそのイメージは存在していませんが、嵐電嵐山駅の前の道を、左には渡月橋ですが、右にまっすぐ、突き当りが嵯峨釈迦堂、清凉寺の山門でした。これは今も変わりませんが、道路が整備され、家が立ち並び、山門前の風景は、すっかり変わっています。この山門の前を左に、小倉山の方へ行って、右に曲がるぅと、落柿舎があります。いまも変わりなく、落柿舎はあります。向井去来、俳句を詠むひとですが、芭蕉の門下生で、ということを知るのは高校生になってからですが、吹奏楽部顧問の寺本先生から、たぶん俳句のひとが、ここにいた、という話を聴いたと、おぼろげながら、記憶が呼び出されます。

 どうした弾みか、高校が、嵯峨野高校ということになって、同級生やクラブの生徒が、太秦から嵯峨の界隈に住んでいて、ぼくにとっても親しい場所となっていくのでした。現在は、嵯峨野高校というと進学校で有名らしい、コスモス科というコースがあって、進学のための勉強レベルが高いと聞いています。当時は、京都市内の中学生で公立高校の普通科に通うのは、小学校区単位で決められていて、ぼくは本来山城高校だったのが嵯峨野高校になった、という話です。中学生から高校生になるのは、1962年のことでしょうか。3年生の秋に東京オリンピックがあって、これが1964年だったはずだから、計算は合うと思います。ケネディ大統領が暗殺されたのが1963年11月、高校二年生でしたから。この流れでゆうと、暗殺の号外を見たのは嵐山駅の前でした。11月23日の朝です。この日は祝日で、文芸部の連中とハイキング、ということで結構早い時間に嵐電の嵐山駅に着いたところでした。飯盒炊爨はやらなくて、男女が山の中へ入って道を歩いた、その記憶の光景が、いくつか思い出されます。

自伝的物語-3-

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 たしか馬酔木の花だと思っているけれど、間違っているかも知れない、馬が酔う木なんて匂いがきついんでしょうかね。昨日です、京都梅ケ畑の平岡八幡宮を訪れました。その沿道に咲いているのを見つけて写真に撮ったものです。堀辰雄の散文に「浄瑠璃寺の春」というタイトルの文章があったと思うんですが、その冒頭あたりに馬酔木が似合うとかなんとか、馬酔木という字句がありました。もうそれを知ったのは半世紀以上も以前の事で、どんな木の事だろうと長らく思っていました。これが馬酔木よ、と教えてくれたのは彼女で、その彼女とはいまも一緒にいます。さて、それはそれで、自伝を書こうとして、ここにいるのですが、通年でなるだけあったことを忠実に、なんて思いと、フィクションにしてしまえ、という思いが交錯していて、フィクションのようなノンフィクションのような、まるで夢の中、とりあえずは自分を立派な人だった、と印象つけるように仕立てていこうかと、思うところです。

 高校の二年生あたりだったか、文学に興味を持ちだして、小説を読みだしたころの、日本の小説家で興味を持ったのが堀辰雄という作家の小説でした。代表作は「風立ちぬ」でしょうね。それから菜穂子ってのもあった、恢復期とかルーベンスの偽画でしたか、不器用な天使なんてイメージは、いまもって心が洗われる感じです。ぼくの年齢でいえば17歳です。青春期の真っ只中というところでしょうか。まだ政治的には目覚めていなくて、感性的に文学へ惹かれていったようです。詩を読むことが多かった。外国の詩人で、アポリネールとかリルケとか、日本の作家では島崎藤村「若菜集」とか、高村光太郎「智恵子抄」だとか、啄木は中学生の時だからここでは除外ですが、自分でも詩集をつくろうと思って、ガリ版刷りの詩集を発行したものです。ただし三号で終わりました。そんななかですね、堀辰雄、風立ちぬ、節子って名前が出てくるじゃないですか、結核で亡くなってしまう女子ですが、とっても新鮮に思えて、愛読します。この節子という名前に、関連付けてその後のぼくの文学歴の系があったように思えます。

 17歳、高校二年生になって、大学の受験勉強を始めたぼくは、三当四落だったか四当五落だったかの熟語があって、睡眠時間によって合否が決まるという受験勉強へのハッパのかけ方で、それの準じて、ぼくは睡眠時間を削って、参考書に向かって、眠くなれば目覚ましの錠剤を吞むということをやりだしました。たしかに良い点が取れたと思います。ところが、ブラスバンド部をつくる話が浮上してきて、それに乗り出したのです。だれだったか合唱部をやっていた中学からの同期生に、吹奏楽部を創ろうといわれて、結局ひとりで奔走することになって、夏前に、吹奏楽部の初披露演奏会を開いたものでした。もう受験勉強は置いてけぼりで、新聞部もやめ、それに没頭して秋の文化祭までを突っ走ります。その底流に、好きな子への想いがあって、それを断ち切る気持ちの中で、すすめたぼく自身への逃避でもあったと思います。吹奏楽部立ち上げが終わる文化祭で、文芸部と出会って、文学への目が開いてきたのかも知れません。(続く)



自伝的物語-2-

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 自分の考え方というか価値の基準というか、それの作られてきた背景を考えることがままありました。いまも自分の生い立ちのなかに、なにが潜んでいて、なにが蓄積されていて、いまのモノの捉え方になっているのだろう。なんてことを考えるんですが、かなり曖昧ですね。でも、歴史とかを学んできたことから、自分では戦後史の枠を想定する中で、ひとりの男がいろいろな活動に関わる、それが自分だ、なんて思うわけです。いわば実録とかいうけれど、フィクションじゃないですか。そのフィクションを持つことによって自分は生きているのだという確証をえているみたいです。内面の時代とか世間で言われているかどうかはわからないですが、ぼくは内面の時代がやってきたているんだ、と思っています。自分を語るということが自分のテーマになるというのが、まさに内面の時代がそこにあるということではないか、と思うのです。

 生まれは昭和21年、西暦1946年です。歴史としてぼくが生まれる前年に第二次世界大戦が終わり、日本は無条件降伏となったわけで、その翌年に生まれたぼくは、完全なる戦後派だと思えるのです。こんなところから書きだせば大河ドラマの台本になってしまうので、簡単にまとめるけれど、産まれた場所は京都の西陣地区です。西陣織の機業地で、向こう三軒両隣、織物に関係する職業のひとばかりの地域です。いいかたがわからないのですが、生活の底辺をいきる人々の群れ、みたいなイメージで、ぼくはイメージしてしまいます。美しくないですよ、京都を描く物語や映像は、それは美的に表現されるけれど、現実、実体験としては、暗くてじめじめしていて黴臭い、遠い思い出の光景は、そのように思えて仕方がないのです。それは感情を伴ってくるから、けっこうやるせないです。地の底なんていいかたでいいんでしょうか、京都の盆地の底に渦巻く生活者の群れ、です。地獄絵の餓鬼道みたいな閻魔から見たら下の方、地獄イメージです。

 父の母は織子です。手機でばったんばったんと織っていた。家の作りが機屋つくりで、家屋ごと織機となる中二階つくりの四軒長屋の一区切りです。そうです、産まれたのは父の実家の西陣ですが、物心つく頃は、壬生にいてました。小学校に入学するとき、産まれた家がある、今も住んでいる、その地に移住してきたのです。覚えています。おぼろげに、いくつかの光景をおぼえています。小学校の高学年になってくると、かなり記憶が鮮明になってきます。地域柄、共産党が強い地域、たぶん、いまでもそうなのかどうなのかわからないけれど、その当時には政治的には権力に刃向かう立場になる人が多かったんじゃないか、と思います。それと在日朝鮮人の人たちが集団で住んでいた区域が、小学校区のなかにありました、と言ってよいと思います。つまり、ぼくは、風土的に反体制、それも過激派ではなくて、穏健派とでもいえばいいのかも、小学校のころだから12歳くらいまでに、そういう資質が植えられてきたのではないかと思えます。

自伝的物語-1-

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 自伝というタイトルで書き始める文章、それに写真をくっつけて、物語風に仕立てていきたいと思うとことです。以前に「自己史の形成」というフレームを考えたことがありました。還暦のころだったかも知れません。それから10年が経って古希という年代に入ってしまいました。先がないと思うと、経てきた過去の時間の中にいることが結構多くて、いろいろ、思うことが多くて、懐かしく思ったり、虚しく思ったり、そういうことが自分という内部で起こっているわけです。物語風だから、決して本当のことばかりではなく、作り話的なこともあるかもしれません。記憶を辿りながら、こうあったらいいのに、と思っていたことが現実であったように思っているのかも知れない。思い込みで勘違いがあるかも知れない。

 ここの枠組みが「芸術のはなし」というタイトルだから、ぼくの芸術にまつわるはなしを軸に記述していく義務があるのかも知れません。なによりも、芸術、っていったら気持ちいいじゃないですか。本音で言ってしまいますが、芸術って、かっこいいです。芸術家に憧れていた自分が、古希を迎えたわけだから、その話は半世紀も以前の記憶から紐解いていかないといけないなぁ。それは二十歳になったころからの記述になります。二十歳になったのは1966年ですね。成人式の日のこと、1967年の1月です。高校を卒業して十字屋楽器店に就職しました。営業ではなくて技術部、ピアノの調律師をめざす職場でした。当時ヤマハのエレクトーンが世に発売されて、修理や調整する技術屋がいないというので、エレクトーンの技術をやらないかと森さんだったか技術部長さんに勧められました。

 当時、大阪は心斎橋のヤマハの二階に大阪支店があって、そこへ三か月の研修目的で預けられました。ヤマハの社員さんと行動を共にした三か月でした。そこで、思ったこと、ヤマハの社員は大手企業のサラリーマン、ぼくは京都の楽器屋の社員、なにか格差を感じたものです。はなしは郵便局時代になりますが、ここは大企業どころか国営で、ビッグ組織でしたから、感じたのは銀行員との収入格差くらいでしょうか。収入を得る道として、正確には1969年12月、郵政省に臨時補充員として採用され、1970年2月に事務員として採用されます。話を戻して、十字屋楽器店は二年で辞めました。大学へ行きたくなって、大学進学を口実に音楽から離れます。退職の時、課長さんに辞める理由を、小説家になる為です、と言ったことをおぼえています。課長さんは、ふふん、と笑っていました。(続く)