芸術のはなし-1-

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この世の出来事のなかに「芸術」の出来事があるように思えます。
芸術することを人の営みのひとつの行為だとすることに異論はないと思えます。
人の営みの一つだとしたけれど、ほかにはどんな営みがあるのでしょうか。
基本的には、生きていくための営み、食べる、セックスする、このことです。
単に生きていくだけなら「食べること」でしょうが、子孫を残すことも必要です。
そうするとセックスして子孫を残していくことをしなければなりません。
それだけで済むかといえば、これだけでは済まなくて、共同体を構成します。
共同体はその後になって国家という概念で括られるようになる集団を構成します。
こういう組織化されるなかにあって、人は社会的な人格を得ます。
ところでこの社会的人格から外れて、個としての人になるとき芸術の領域になる。
社会的人格というのがあって、それの対極として、いってみれば芸術的人格がある。
そのように言えるのではないかと、思うようになっています。
社会のなかにあって、社会的人格は、経済活動に組み込まれた人格です。
観念的に考えて、この経済活動から外れるところに芸術活動が生じてくる、と。
(続く)

風景論-5-

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<内なる風景-3->
今日は2017年3月6日という日付です。
ここに掲載した写真は嵯峨天皇陵の正面から撮ったものです。
すでに撮った日時は過去になったことです。
時間という意識の区切りは、ひとの記憶を司ります。
ところが内なる風景というとき、この時間がランダムになります。
一年前の2016年3月6日という日の記憶は、一枚の写真で記憶が呼び覚まされます。
ここには掲載しませんが、日付がはいった写真でした。
その写真を撮ったときのことを思いだします。
お別れした日の、そのあとの、傷心をとどめようとした記憶がよみがえります。
連鎖的にそのことが起こった日のこと、そこに至った日々のことを思いだします。
内なる風景は、記憶だから自分には幻影で見える風景ですが、写真のように定着しません。
写真が内なる風景の定着であろうとするなら、それは、どうすれば、そうなるのか。
内なる風景と表現された風景は、乖離しているわけですが、そこに美が介在するのかも。

posted by nakagawa at 18:11Comment(0)風景論

風景論-4-

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<内なる風景-2->
 コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって、にかけて「内的風景に向かって」という言葉が浮かんできました。半世紀前の写真家意識というのは、社会的風景に向けて作品を創るということだと言えます。それから半世紀後の現在では、人間の進化というか変化も含め、その意識の向かい方は内に向かってきていると思います。外面がひろがって、自己の存在を認識できるようになったところから、内面を認識するように目覚めてきたといえるのではないか。ケン・ウイルバーでしたか「進化の構造」のなかで、このことを分析していたように記憶しています。

 個を中心に世界の構造をみると、外にひろがる世界と内にひろがる世界があることに気づきます。内にひろがる世界のことを「内面」という言い方や「心的風景」「心象風景」といったような言い方があるかと思います。この内面のイメージを、平面に静止画として定着させるということを、自分表現の一つとして浮上してきていると思います。今更のことではなく、それは1930年代とか、1960年代とか、いくつかの年代を越えて深化してきているように思えます。新興写真運動や社会風景への認識を越えて今があると思えることです。風景の発見ということを文学上で論じるのは柄谷行人氏です(日本近代文学の起源:1978)。
posted by nakagawa at 21:45Comment(0)風景論

風景論-3-

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<内なる風景-1->
自分という身体を介して、その外側と内側があると想定しましょう。
身体の内側というと脳とか内蔵とかとか血管とか、血液とかリンパ液とか。
いってみれば生理的に確認できる、見えるものとしての内側があります。
それから、ここでいう<内なる風景>の内なるという内のことですが。
内面とかいう言葉がありますが、いったいこれが何モノなのか、ということです。
あるいは最近の言葉だと、心とか、精神だとか身体を割ってみても、見えるモノではありません。
それなのに内面、内なる風景、あるいは心とか精神ということがいわれます。
見えないモノを見る、ということをいうようになり、実践しようとします。
これは心・精神の、ヒトの在り方の未来形ではないだろうかと考えます。
そもそも外と内に分けるという思考法、いつのころから成立してきたのか。
たぶん、近代という枠組みの中で、組み立てられてきた言葉ではないか。
そうして、その言葉が醸すイメージを、感情を伴わせて、内に立ち昇らせる。
経験のイメージを、自分の中で組み合わせる。
これを言語に置き換えていくというのが文学、小説、詩、和歌、俳句。
なかなか、この<内なる風景>のことを考えるようになったのは最近ではないか。


posted by nakagawa at 17:34Comment(0)風景論

風景論-2-

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今日2月11日は建国記念の日という国民の祝日だといいます。
なんでなのかよくわからないんですが、それはぼくが怠慢だからでしょうか。
あんまり深くは考えないようにしていますから、深部はわからなくてよいのかも。
三年前、橿原神宮へ、写真撮影を目的に、グループで行きました。
その後、昨年から奈良の古代史の跡巡りらしきこと、やりはじめました。
橿原神宮は畝傍山の麓にある神社で、明治になって創建されたと聞きました。
そういえば京都の建勲神社も明治になっての創建だと、これは記されています。
日本の風景、美しい自然の風景ではなくて、美しい社会の風景、これがこれか。
美しいという表現は、美(び)ということですが、この美とは、何か。
心情というか、心のなかの感覚というか、そういうことの中身そのことか。
社会的風景に向かって、なんて1966年だったか、もう半世紀も前のアメリカ。
そういえば新しい大統領が選ばれて、日本の首相が今日トップ会談をしてる。
どのように風景が変わってくるのか、注視していかないといけません。

posted by nakagawa at 11:58Comment(0)風景論

風景論-1-

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風景について再び語ることにしました。
あんまり難しくしてしまうとわかりにくいので簡単に表記します。
写真を撮っていて、目の前に広がる世界というか光景を目にして、写真にします。
実はこのときの「写真にする意味」を捉えようとするのが目的でもあるのです。
でも、いろいろと考えていて、この意味ということ、そのことから語らないといけない。
なにせ本質に迫ろうとして、その本質とはどういうことなのか、と迷宮入りになります。
なので、そのことを排除して、写真を載せていこうと思っているところです。
昨年、風景論と称して、写真集を9冊作りました。
でも諸般の事情もあって、9月末で終了させました。
それからいろいろ考えてはいるけれど、行為にはなっていません。
なんだか虚しい気持ちになってしまって、書けなく、作れなくなったようです。
どうしたことか、ここもぼちぼち、恢復させていきます。

posted by nakagawa at 16:38Comment(0)風景論