風景論-4-

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<内なる風景-2->
 コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって、にかけて「内的風景に向かって」という言葉が浮かんできました。半世紀前の写真家意識というのは、社会的風景に向けて作品を創るということだと言えます。それから半世紀後の現在では、人間の進化というか変化も含め、その意識の向かい方は内に向かってきていると思います。外面がひろがって、自己の存在を認識できるようになったところから、内面を認識するように目覚めてきたといえるのではないか。ケン・ウイルバーでしたか「進化の構造」のなかで、このことを分析していたように記憶しています。

 個を中心に世界の構造をみると、外にひろがる世界と内にひろがる世界があることに気づきます。内にひろがる世界のことを「内面」という言い方や「心的風景」「心象風景」といったような言い方があるかと思います。この内面のイメージを、平面に静止画として定着させるということを、自分表現の一つとして浮上してきていると思います。今更のことではなく、それは1930年代とか、1960年代とか、いくつかの年代を越えて深化してきているように思えます。新興写真運動や社会風景への認識を越えて今があると思えることです。風景の発見ということを文学上で論じるのは柄谷行人氏です(日本近代文学の起源:1978)。

風景論-3-

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<内なる風景-1->
自分という身体を介して、その外側と内側があると想定しましょう。
身体の内側というと脳とか内蔵とかとか血管とか、血液とかリンパ液とか。
いってみれば生理的に確認できる、見えるものとしての内側があります。
それから、ここでいう<内なる風景>の内なるという内のことですが。
内面とかいう言葉がありますが、いったいこれが何モノなのか、ということです。
あるいは最近の言葉だと、心とか、精神だとか身体を割ってみても、見えるモノではありません。
それなのに内面、内なる風景、あるいは心とか精神ということがいわれます。
見えないモノを見る、ということをいうようになり、実践しようとします。
これは心・精神の、ヒトの在り方の未来形ではないだろうかと考えます。
そもそも外と内に分けるという思考法、いつのころから成立してきたのか。
たぶん、近代という枠組みの中で、組み立てられてきた言葉ではないか。
そうして、その言葉が醸すイメージを、感情を伴わせて、内に立ち昇らせる。
経験のイメージを、自分の中で組み合わせる。
これを言語に置き換えていくというのが文学、小説、詩、和歌、俳句。
なかなか、この<内なる風景>のことを考えるようになったのは最近ではないか。


posted by nakagawa at 17:34Comment(0)風景論

風景論-2-

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今日2月11日は建国記念の日という国民の祝日だといいます。
なんでなのかよくわからないんですが、それはぼくが怠慢だからでしょうか。
あんまり深くは考えないようにしていますから、深部はわからなくてよいのかも。
三年前、橿原神宮へ、写真撮影を目的に、グループで行きました。
その後、昨年から奈良の古代史の跡巡りらしきこと、やりはじめました。
橿原神宮は畝傍山の麓にある神社で、明治になって創建されたと聞きました。
そういえば京都の建勲神社も明治になっての創建だと、これは記されています。
日本の風景、美しい自然の風景ではなくて、美しい社会の風景、これがこれか。
美しいという表現は、美(び)ということですが、この美とは、何か。
心情というか、心のなかの感覚というか、そういうことの中身そのことか。
社会的風景に向かって、なんて1966年だったか、もう半世紀も前のアメリカ。
そういえば新しい大統領が選ばれて、日本の首相が今日トップ会談をしてる。
どのように風景が変わってくるのか、注視していかないといけません。

posted by nakagawa at 11:58Comment(0)風景論

風景論-1-

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風景について再び語ることにしました。
あんまり難しくしてしまうとわかりにくいので簡単に表記します。
写真を撮っていて、目の前に広がる世界というか光景を目にして、写真にします。
実はこのときの「写真にする意味」を捉えようとするのが目的でもあるのです。
でも、いろいろと考えていて、この意味ということ、そのことから語らないといけない。
なにせ本質に迫ろうとして、その本質とはどういうことなのか、と迷宮入りになります。
なので、そのことを排除して、写真を載せていこうと思っているところです。
昨年、風景論と称して、写真集を9冊作りました。
でも諸般の事情もあって、9月末で終了させました。
それからいろいろ考えてはいるけれど、行為にはなっていません。
なんだか虚しい気持ちになってしまって、書けなく、作れなくなったようです。
どうしたことか、ここもぼちぼち、恢復させていきます。

posted by nakagawa at 16:38Comment(0)風景論

芸術について-2-

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<絵描きさんのこと>
美術展という会場には、余り行く方ではなくて、たまたま招待券があるとか、無料であるとか、そういうときには見せてもらうことが多いです。ぼくなんかは、美術展をたまに見るレベルで、その厳かに飾られた会場へいきます。とはいいながらも、テレビで日曜美術館を観ますし自室には世界の美術がわかる全集があり、有名どころを集めた日本の画家さんの作品全集なんかもあります。漠然と西洋の絵画史や日本の絵画史などを俯瞰できる知識はあると思っていますが、論を立てるほどに精通しているわけではありません。論を立てるには、それだけの枠組みを知って、その枠組みから逸脱しないようにして、自分の主張を文章にしていかなければならないのではないか、と思うところです。

そういうことではなくて、というところからぼくの論がはじまるわけで、理路整然でないから、わけがわからないと言われてしまうと思います。理にかなったというか、論というからには言葉の組み合わせで、ピラミッドのように、あるいは五重塔のように、積み上げていかないといけない。でも、そうではない方法という方法もあるのではないか、と思う気持ちもあります。一定の方法に従わない、ルールを無視する。それでも、ほかの人に伝わることがあるとしたら、むしろその、伝わることがあるのではないか、と模索するのです。ぼくは日本語しか使えません。それも現代語、そのなかでも限られた生活用語ぐらいで、言葉の羅列で深遠な感情を導き出させるほどには洗練していません。

ごく最近、ある絵描きさんの作品展を見にいきました。激しい感動が起こった、ということではないけれど、なにかしらほのぼのとする気持ちになってきたのです。なになに?、言葉にはならない感嘆詞レベルの言葉しか出てこなくて、そのなかみに触れられないまま、作者さんがおられたので、前に顔見った方だったので、少し会話することができました。ぼくのこころの揺れかたのことです。その方の履歴が貼られていて、そこに<絵描き>と記されていました。ああ、絵を描く人なんだ、と思ってしまう自分がいました。アブストラクトな、幻想的な、イメージを立ち昇らせて描かれているハガキの大きさの絵。水を使ってないという絵具は、クレパスとかでしょう、ぼくにはその名称がわからない素人です。基本には日本画という技法を学ばれたようなのです。(続く)

芸術について-1-

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<はじめに>
正直に申し上げます。ぼくには芸術っていうことがよくわからないんです。世の人々が、なにをもって芸術とお言いになるのか、正直、よくわかりません。わからないから、わかろうと思って、あれやこれたと詮索してみましたけれど、やっぱり霧の中って感じで、明確な姿が見えないんです。皆さんは、どうなんでしょうね、ぼくだけがわからなくて、みんな知ってる。そうかも知れないし、そうでないかも知れませんね。なので、ぼくは、ここで、あらためて、芸術とはなにか、という問題を、ぼく自身に提出します。ぼくは、ああでもない、こうでもない、たぶん、右往左往しながら、答えていこうとします。いまどき、そんなこと考える奴はアホや、と言った友がいたけど、アホでもいい、時代遅れでもいい、とにかくぼくの気持ちが晴れないのです。

芸術ってなに、こういう問いかけは、どういう範疇に分類されるのでしょう。基礎演習でしょうか、たとえば法とはなにか、文学とはなにか、音楽とはなにか、なんていう問いかけの上位に蓋然としてある根本的な問なのでしょうか。目論見としては、螺旋階段を降りていくようなイメージで、次第に個別の問題に及んでいきたいと思っています。個別の問題に及んで、そこで、ああでもない、こうでもない、やっぱりわからなくなるのかも。断定すればいいのだ、と思う。過去に誰かが言ったそのことをベースにして、断定する。それはそれでいいかもしれないけれど、それは矮小化された結論ではないかと思えます。新しい時代の感覚で、新しい枠組みが作れないか、と思うわけです。

芸術作品、って呼ばれる目に見える物があるじゃないですか。たとえば絵画、彫塑、陶器とか。具体的には、モナリザとか、ミロのビーナスとか、あの茶器はなんだったっけ、有名なお茶碗。でも、なぜ、それが、芸術作品って言われているのか、その言われを問い詰めていきたいと思うのです。玉ねぎの皮を剥がしていったら何が残る、その要領で、芸術という物の皮を一枚づつ剥がしていく作業をやりたいと思うところ、そんなことできるのか。これはけっこうフェティッシュな、あるいはエロティックな、ヒトの心の奥をみつめ、あぶり出す、そういうキワモノなのかも知れない、と思ったりします。外観はどうでもよい、内側、内面、その無意識レベルの奥があぶり出せないか、そのようにも思うところです。